真の厳しさは、真の優しさである

言葉の力

本日の格言は、「真の厳しさは、真の優しさである」です。

私は中学生の時に軟式野球部に所属していたのですが、顧問の先生がそれはもう怖い先生で、毎日厳しくご指導を頂いておりました。あれって今の時代だとパワハラだよなと思うこともあるような、ないような・・・。

あの頃は、誰も逆らえる人はいなかったですし、言うとおりにやっていればそこそこ試合も勝てたので、それが普通なんだと思って一生懸命ついていこうとしていました。その厳しさ故に、未経験の同級生が何人か辞めてしまったりもありました。私は少年野球をやっていましたし、野球が好きだったのもあり、辞めようとは思いませんでした。

それでも、怒られないように気を付けながらビクビクして野球をやっていたのは事実としてあります。もっと優しい先生だったら、伸び伸びと楽しんで出来たかもしれません。しかし、その厳しさによって基礎を固めることができたという側面もあります。何より先生の指導によって、上手くなれるし、試合にも勝てるようになることが嬉しかったんだと思います。

これまで生きてきた中で、嬉しかったことや楽しかったことはよく覚えていますが、辛かったことや厳しくされたことも同じくらい鮮明に覚えています。

今になって思うことは、怒るという行為はすごく体力を使いますし、出来れば人には嫌われたくないと思うのが普通なんじゃないかということです。何か問題が起きるのを避けて何事も穏便に済ませたいと思うのが普通ではないでしょうか。

顧問の先生がそこまで厳しくする理由はなんだったのか。私にはその行為が、何か不満が溜まってストレス発散のための自分勝手な指導だとか、何か自己満足のために優越的な地位を築くだとかには感じませんでした。しかも後から知ったのですが、その顧問の先生は野球経験がなかったそうなのです。

あの指導は、野球経験がなかった故の威嚇のようなものだったのでしょうか。私はそうは思いませんでした。

経験がないスポーツを指導して、しかも勝たせるということは、相当難しい事だと思います。自分に置き換えてみましたが、とてもじゃないですが私にはできませんし、責任が持てません。

大人になってからその先生とサシでお酒を飲みに行くことになるのですが、めちゃめちゃ緊張しましたが、当時の事を覚えていてくれて、あの頃とは印象が全く違って、たくさんいいお話を聞くことが出来ました。その時に、先生が影響を受けたという野球の指導書を頂きました。その本を読んだ後に感じたのは、指導書の内容にはもちろん感動したのですが、野球経験なしにチームを勝たせる指導ができたのは、こういった本をたくさん読んだんだろうなということでした。

それも自分に置き換えて考えてみました。生徒といっても所詮は赤の他人です。卒業したら正直会うかどうかもわからないくらいの関わりです。そんな関係性なのに、そこまでしてあげられることが出来るだろうか。教師の仕事というのは、やったことないので想像ですが、簡単ではないと思います。日々の仕事をこなす中で、部活動まで、しかもやったことないスポーツの勉強までして・・・。

その先生の指導はとても厳しいものでした。でもその厳しさというのは、生徒のためを想い勉強して努力して知識を付けて、野球が上手くなってほしい、その中で、肉体的にも精神的にも成長してほしいという優しさだったのではないか。そう考えるようになりました。

ここまで述べてきましたが、厳しく接することがすべて正解だと言うつもりは毛頭ありません。中には、自分勝手に目標達成のためとかで、頭ごなしに怒鳴りつけてくる人も実際います。そういう人には本当に注意しなければならないと思います。

その時はわからなくても、私のように後からあれは相手のためを想っての事だったんだと気づくこともあるかと思います。むしろ厳しくされた経験というのは、その時には厳しくされたという印象だけ残って、それがどういう意味があるのかは後から気づくものなのかもしれません。

それでも今後はこの経験を活かして、もし厳しいことを言われた時に、一瞬でもいいので冷静になって、これは誰のためとか、相手の事情も考えてみてから、それが真の厳しさかどうか判断してみてもいいのかなと思いました。それが、本当に自分の事を想って言っていることだと感じることが出来たら、それに応えたいと思うことが出来るかもしれません。



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